お大師スイッチ

[ 2014-01-25 ]

聖地「高野山」に行ってきました^^

1泊2日の旅程。2日間でゆっくり高野山の街(寺)並み、奥之院、金剛峰寺、檀上伽藍などの素晴らしい建築物を見ることができました。
宿泊は「金剛三味院」。源頼朝の菩提寺でもあります。
雪の結晶を肉眼で確認できるくらい、空気の澄み渡った極寒の聖地の佇まいは期待以上でした。

 

私の旅の目的は「おまいりんぐ」で題材にしている「お遍路」のルーツがこの「高野山」にあると思ったのと、「空海」という人をもっと知りたい、感じたいと思ったのがきっかけだったんです。

 

空海(お大師さん)という人のことを考えてみると、仏教っぽくないというか宗教っぽくないんですよね。(こんな言い方すると怒られるかもしれませんが。)

私は仏教徒ではないですし、まだまだ勉強中で偉そうに語れる立場ではないと思うのですが、私が感じたのは、、

 

「絶対的な存在」が人の中にいて、その象徴となっているのが、お釈迦さま(大日如来)であったり、日本の神様、イエス・キリストであったり。
それぞれの真理への道を、次の神様や仏様やいろいろな人を通じて、伝え方を時代や地域、国民性に応じて説いているのではないかと。
なので、宗教や宗派が違っていても、根源は一つなんだと思います。(宗教的な事はここでは書くつもりはないのですが、、何を食べたら、したらダメとかは、思想を支配し布教の為の利権を求める人たちが勝手に足し加えたものであって、そもそもの考えではなかったと思います。)

空海は中国で恵果阿闍梨から「密教」を受け継ぎ、日本で「真言密教(真言宗)」というカタチで仏教を伝えたそうです。
最近読んだ「三教指帰」という彼の書では「道教」「儒教」「仏教」の3つの教えの行きつくところを書いているのですが、空海は他の宗教(思想)を決して否定していません。
「人(自分)とは何か?それを理解するためには人(自分)はどのように生きる必要があるのか?」を自分なりに考え抜いた結果、仏教にたどり着き、出家したと言われています。
その後も根底には他の宗教も考え方も否定しないという考えを貫いています。だから1200年も昔に存在した「空海」が今でも慕われているのは、宗教という枠組みを超越してるというか、人としての器の大きさ、魅力があったからではないかと思うんです。だから今も多くの人の心の中に存在し続けて、「仏教」というよりは「空海」の主体性から生まれた「モノ」を慕っている人が多いのではないかと。私もそのうちの一人になったのですが^^

 

空海から生まれたモノの一つ、お遍路。

私が思うお遍路とは、うまく言葉で表現できないんですが、、

「自分自身を開示する(自分と会話する)。その必要があったときに与えられる時間」だと思っています。(僕の周りではそのタイミングをお大師スイッチと言ってるんですが。。)

子供の頃から生きることを諦めてしまった人を何人も見てきました。 その場を間近でみた時の事は、今でも頭から焼き付いて離れません。
お遍路をしたから全てが変わるとは思わないし、なんでもかんでもお遍路に結び付ける訳ではないんですが、この人達の場合はお遍路という一つの選択をするキッカケがあれば、同じような苦しみを共感し合える人に出会い自分を開示することによって救われたんじゃないかと思います。

自分の事がわかる人なんて多分いないと思うけど、自分を開示したときに初めて「絶対的な存在」に気付くというか出会えるんじゃないかと思うんです。それに気付いたという事がお遍路に出るという事であって、その存在に触れることによって囚われや拘りなどから限りなく自由になれるんじゃないかと。
空海が残したように、否定的ではなく肯定的に欲や執着を清浄にする。自らが力強く「生きる」という事に大きな肯定をする。そうすることで、もっと自由に、もっと主体的に、もっと楽しく生きていくことができる。生きることはどういうことか?気付くキッカケじゃないかと思います。

 

高野山から帰って、ますます空海の事、お遍路の事が知りたくなりました^^
今年、お大師さんからのスイッチを入れられるような気がしています。

■金剛三味院

 

■金剛峰寺

 

■檀上伽藍

 

■奥之院入り口(一の橋)

 

 

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